wadaa011203 「現代政治の理論と実際」
「米同時多発テロにおける情報」 e011725 和田明子
1.情報
現代は情報化時代といわれる。では、情報の定義とはなんだろうか?広辞苑によると、「あることについての知らせ」とされる。この情報源はどこかというと、まずあげられるのはテレビ、新聞、インターネット、書籍などの視覚が必要となるもの。また、ラジオ、会話などの聴覚を必要とするものなど、その他にも無数にある。その情報の7割は視覚によるものと言われているが、殆どがメディアを媒体とする情報である。上記の情報源の例の中でも、メディアが関わらないものといえば、「会話」しかないのだ。いかにメディアが我々の情報に密着しているかがわかる。
今回の米同時多発テロでは、米軍による情報操作が行われたという説が有力である。「情報操作のトリック」(川上和久著)によれば、情報操作とは「情報の送り手の側から見れば、個人、もしくは集合的な主体が、何らかの意図をもって、直接、もしくはメディアを介して、対象にたいして、意図した方向への態度・行動の変化を促すべく構成されたコミュニケーション行動とその結果の総体である。また、情報の受け手の側から見れば、意図的・非意図的によらず、受け手の態度・行動に影響を及ぼすコミュニケーション行動、及びその結果の総体である」とされる。この定義によれば、情報操作は我々の日常生活にも深く入り込んでいると言える。今回においては、情報操作の中でも、マスメディアの関わるものについて考えることにする。
2.これまでの情報操作の例
・ アメリカが湾岸戦争を始める前にある1人の少女が、「クウェートに侵入したイラク兵達が、保育器に入った未熟児を投げ出して殺すのをこの目で見ました。たくさんの赤ん坊たちがそんな目にあったのです」と、身を震わせて泣きながら話す映像がテレビで放映された。だがその少女はクワェート駐在のアメリカ大使の娘であり、しかも、ある広告代理店がその少女を起用し、TVに出演させ、そのような証言をさせたのだった。つまりその広告代理店はクウェート側のスポンサーから、アメリカ世論をクウェート側に同情的にし、イラクへの敵愾心をあおるよう依頼され、そのようなことを行ったというわけである。そのTV放送のあと、アメリカ議会は5票差の投票で湾岸戦争開始が採択された(うち6人以上が後に、そのTVに影響されて、開戦に投票したと証言)。これがアメリカの参戦か否かの投票に大きく影響した。これはもちろん意図的に行ったもの。
・ 石油ショックの際、トイレットペーパーがなくなるといううわさが広まり、大混乱に陥った。これは、あるスーパーで偶然トイレットペーパーが売り切れたに過ぎないのだが、マスコミがそれを大々的に取り上げたことによって起こったもの。これは意図的とも非意図的ともいえない。
・ 数年前、フジテレビの「愛する二人 別れる二人」という番組が「やらせ」だったことが判明し、打ち切りとなった。この番組の内容は、交際中の男女のうち一人が番組に登場、恋人に関する相談をパネラーに持ちかけるというもの。後にその相手も登場して恋人とパネラーとともに話し合うが、大抵はその片方、または双方が浮気をしている。そのことに対してパネラーや司会者、恋人が責め立て、大騒ぎとなるのだが、実際には恋人同士と称していても、そんな事実はなかった。よって浮気などももちろん事実無根であり、番組全体がうそで固められたこととなる。
・ ドキュメンタリー番組として評価の高いNHKスペシャルのやらせ。「禁断の王国ムスタン」だ。ムスタンとは奥ヒマラヤの王国で、それまでカメラが潜入したことがなかったため、事前に新聞に取り上げられるほど注目を浴びていたが、放送の翌年、ヤラセだったことが発覚。例えば、流砂のシーンや落石のシーンがあり、スタッフはこのような危険を冒して現地に入ったことになっているが、実際にはそのどちらも人工的につくられたものだった。また、スタッフが高山病になり酸素吸入を受けるシーン、水不足で少年僧が雨乞いの祈りをするシーンもやらせだった。(参考文献「情報操作のトリック」川上和久著)
・ 選挙に関してマスメディア利用が比較的自由なアメリカにおける、大統領選挙に関するもので、共和党ニクソン候補と民主党ケネディ候補のテレビ討論。南部を遊説して日焼けしたケネディ候補は、視聴者に視覚で訴える作戦を立てた。彼はカメラ映り・雰囲気・印象を重視し、背景の色とマッチしたスーツやストライプのネクタイ、ライトブルーのシャツで若々しい印象を醸し出した。一方ニクソン候補は、真面目に政策を訴えるが、大急ぎのメイクのためか顔にクマができ、濃い髭剃り跡・背景の色と区別のつかない区別のつかないライトグレイの服など、陰気な印象が否めなかった。ラジオで聴取していた有権者は、ニクソン候補の勝利を確信したが、テレビではケネディ候補の勝利が的然としていた。結果、ケネディ候補の勝利となったが、一般投票での両候補の票差はわずか11万票に過ぎなかった。このテレビ討論が、選挙結果に大きく影響したと言われている(前項同様)。
3.今回の同時多発テロにおける情報操作
今回の事件に関する一連の報道の中で、次のような映像があった。パレスティナの市民が、米国がテロによって攻撃されたというニュースを聞いて飛び上がって喜び、騒いでいるものだ。米国のどのテレビ放送局でも報道され、日本でも多くのテレビ局がこの映像を流した。これを見た殆どの人は「多くの犠牲者が出ているのに、それを見て大喜びするとは、ひどい市民だ」と思い、パレスティナ市民に対して悪いイメージを持っただろう。だがこの映像は、米国による情報操作だったとする声が多く挙がっているのだ。
テロが起きたニューヨーク時間の8時45分、中東のパレスティナは夕方にさしかかる時間だったはずだ。しかも、そのテロが起きた瞬間にパレスティナにまで情報が流れていったとは考えづらい。どうしても一時間程度は時間がかかったはずだ。そう考えると、この喜んでいる映像は9月11日という時期から考えると暗くなっていてもおかしくない時間帯。しかし、この映像はしっかりと昼間の様子を写し出していた。
不確定ではあるが、この9月11日という日にパレスティナではお祭りが行われていた、との情報がある。とすると、市民が喜んでいたのはテロに賛成して喜んでいたのではなく、お祭りのために騒いでいただけに過ぎない、という仮説が成り立つ。
4.なぜ情報操作が起こるのか?
前章の仮説(つまりパレスティナ市民は米国がテロにあったことを喜んでいたのではなく、ただ自分たちのお祭りで騒いでいただけだということ)を事実と仮定しよう。すると、どうして米国はそのようなことをしたのだろうか?
米国は当初、このテロはパレスティナの犯行によるものではないかと見ていた。そのためいつでもアフガンに攻撃できるよう、国民に、パレスティナ市民に対して、数千人の人が被害にあっているのに喜ぶとはひどい市民だというようなマイナスイメージを持ってもらいたかったのである。そして例の映像の影響もあり、多くの人がそのようなイメージを持った。その結果米国には、驚くべきほどの愛国心・結束力が生まれた。各地で米国歌が歌われ、星条旗が高々と掲げられた。そして、まだテロがパレスティナによるものと断定されていない時点にも関わらず、CNNの行ったアンケート調査によると、94%の米国民が、アフガンへの武力攻撃を支持した。まさに米国の思う壺である。
結局、今回の場合は世論を操作するために国家が黒幕となったといえる。国家が情報、そして世論までも操作したいのは当然のことである。だが、マスメディアはそれに協力してはいけなかった。我々は特に今回のような秘密性の高い事柄に関しては、マスメディアを通してしか情報を得ることはできない。メディアの使命は、我々を楽しませることだけでは決してないだろう。それより大切なことは、我々に真実を伝えることである。メディアの起源もそこであったのだ。
だが、メディアばかりを責めるわけにも行かない。メディアの情報操作は、我々にも責任があるからだ。言い換えると、皮肉なことだが我々自身がその黒幕となることもあるということになる。例えば3章の「愛する二人別れる二人」においては、番組内容がだんだん過激になっていった。番組開始時は、出演者同士は普通に話し合いをしていた。そしてそれが口げんか程度となり、いつのまにか出演者同士・パネラーへの殴りかかりなどとなっていた。これは、あくまで我々の期待にこたえるために行ったといえる。というのは、まるで麻薬中毒者が、最初の摂取量に慣れ、それでは物足りなくなってだんだん摂取量を増やしていってしまうように、視聴者の感覚がその番組の過激の程度になれていってしまったのだ。そして更に過激なものを望む。それに答えるためにやらせを犯してしまったというわけだ。だが、そのおかげで視聴率も高かった。そうなると、さらにテレビ局側の期待もあっただろう。そういった二重の期待にこたえるため、番組はやらせを続けるより他なかったといえる。まるで、「こぎ始めたブレーキの利かない自転車」のように。
5.メディア・リテラシー(Media Literacy) に対する各国の教育
リテラシー(literacy)とは、新聞を読んだり手紙を書いたりする読み書き能力のことで,メディア・リテラシーとは「メディアとのつき合い方とその活用能力」、のことだが、もっと広くいえば“より良い自己実現にむけて、多様なメディアを自己の責任で選択し、物事の本質を見抜く能力を自ら可能な限り高めるために、メディアが伝える情報を構成されたものとして批判的に受け入れ、あわせて、最も良いと考えるメディアの組み合わせによって自らの考えを構成的に表現し、他者とのより望ましいコミュニケーション関係を創りだす能力”のことである。
1962年にノルウェーで開催された「映画・テレビ教育に関する国際集会」においては、「映像教育(screen education)」を国際用語として採用し、「メディアに対して大人と子どもの双方が批判的かつ鑑賞的に反応するための教育である」と定義した上で、学校教育課程の中で実施されるべきであるとしている。メディア教育を学校教育の正規のカリキュラムに組み入れる傾向は、1960年代後半から1970年代にかけて出現しはじめた。
では、各国の取組みについて見てみることにする。
(1)イギリス
プレスや映画批評に始まる長いメディア教育の歴史があるが、メディア教育としてカリキュラムに組み込まれるようになったのはごく最近である。例えばイングランドの場合、メディア教育の概念が盛り込まれた共通カリキュラムが導入されたのは1989年。メディア作品の読解や分析等を中心としたメディア教育は、初等、中等教育を通じて主として英語(国語)の授業の一環として行われ、中等教育終了時の試験科目の中に、選択科目として「メディア研究」等が含まれている。
(2)ドイツ
各州間の教育政策・制度の違いを調整し、共通性を確保するために設置した教育・文化担当各州大臣による「常設教育・文化担当大臣会議」が決めたガイドラインに従ってメディア教育の取組みが行われている。また各州の放送庁8は、メディア教育に関する研究が任務の一つと見なされていることもあり、市民による番組制作への支援やメディア教育の推進団体への支援等を行っている例もある。さらに、公共放送のZDFはメディア・リテラシーに関する番組を放送しているほか、放送庁からのメディア教育に関する委託研究をはじめ、機関紙の出版、各種セミナーの開催等、メディア・リテラシーの普及活動を全国的に行っている放送局もある。(*教育に関する基本的な権限は各州の教育担当省にある。)
(3)フランス
フランスでは、初等・中等教育の教育課程にメディア教育に関して述べている部分があり、例えば、初等教育の公民科における「民主主義に関する議論」の授業では、メディア・リテラシーに関するテーマは必修となっている。また、公的機関である国立教育資料センターは、教師用のメディア教育用教材を制作・出版している。さらに、公共放送では国立教育資料センターと協力して作成したメディア・リテラシーに関する番組を定期的に放送しているほか、メディア・リテラシーの教材の制作、各種セミナーの開催等、普及活動を行っている放送局もある。
(4)アメリカ合衆国
1989年の教育サミットをきっかけとして、各州独自のカリキュラム作成、教育の実施が奨励されており、連邦教育省から関係機関への補助金も交付されている。なお、連邦教育省は、メディア・リテラシーの普及活動を行っている州に対しても助成金の交付を行っている。
(5)オーストラリア
オーストラリアにメディア教育が導入されたのは1970年代に遡るが、1994年に導入された全州共通カリキュラムにメディア・スタディーズの概念が導入されたことにより、全州共通の必修項目となった。(*教育に関する権限や責任は、各州政府の所管になっている。)
(6)アジア諸国における取組
香港、フィリピン等では、政府レベルの取組みが行われている。例えば、香港及びフィリピンでは学校カリキュラムにメディア教育の概念が含まれているほか、韓国では放送法の中に、放送事業者に対する視聴者評価番組の編成義務が規定されている。また、シンガポールでは、研究機関であるAMICがメディア教育に関する研究のほか、各種教材の制作・出版を行っている。
(7)日本
メディア・リテラシーの重要性については認識されつつあるが、各種メディアの意識化、評価、判断能力の育成を含め、メディア・リテラシーに関する具体的な取組みについては、一部の教師、NPO、研究機関やメディア機関等において自主的に実施されている程度であり、制度的・組織的取組みには至っていない。また、一般の我々にとってはまだまだ耳慣れない言葉でもある。だが学校教育においては、各教科や「総合的な学習の時間」において、コンピュータやインターネットを積極的に活用することとしている他、中学校の「技術・家庭」や平成15年度から新しく高等学校に導入される教科「情報」を通じて、「情報活用能力」の各学校段階を通じた体系的な育成を図っていくこととしており、このような「情報」に関する教科や各教科においてインターネット等、新しいメディアを中心としたメディア教育を充実していく方向にある。(*新しい学習指導要領は、小・中学校では平成14年度から全面的に、高等学校では平成15年度新入生から段階的に実施されることとなっている。)
(http://www.yusei.go.jp/pressrelease/japanese/housou/000831j702.html#s202から引用・要約)
6.考察
マスコミによる事実の歪曲は頻繁に行われているにも関わらず、我々は、全ての情報を受け入れ信じてしまいがちだ。だがそれではマスコミの思う壺だ。我々は今まで、マスコミに踊らされていたのだ。いや、マスコミだけと一言でいうことはできない。なかんずく、政治が絡む場合はそうである。第2章で取り上げた湾岸戦争の開始に関する情報操作、そして第3章で取り上げた今回のテロにおける情報操作。これが本当に国家によって操作されたものだとしたら、我々は本当の意味での民主主義政治に関わっているといえるのだろうか?国家はマスコミを使って国民を思ったとおりに動かしている。過激な言い方になってしまうが、これでは国民なんていてもいなくても同じではないか。言葉通り、「国民の不在」だ。だが、そのように情報を操作し、国民だけではなく全世界をだましている国家――米国が多いという感がぬぐえないが――の信頼がなくなるのも、時間の問題である。国際社会の中で信用をなくしたら一体どうなるのか。すぐにわかることだ。全世界からの孤立。そんな時期がきたらどう対処するのだろう。今回の同時多発テロのように、また武力でねじ伏せるのか。
外国でも情報操作は行われている。だがその分、数年前、もしくは10数年前から情報の真偽・そして操作されていることを見極める目を養う、メディア・リテラシーが行われているのだ。日本では外国に勝るとも劣らない情報量が溢れていながら、それがない。だからよく、日本は情報を懐疑なしで受け入れやすいといわれるのだろう。そしてその結果、誤った情報に翻弄されることとなる。情報操作はそうすぐにはなくならないものかもしれない。これは各人の良心に関わる問題であり、それに加えて、前にも述べたように、1度始めたらなかなか終わらせることのできないものだからだ。だからこそ私たち自身でそれをきちんと見極めなくてはならない。ここまで情報を自由に手に入れられるのだから、情報に翻弄されるか否かは、最終的には自己責任ということになるのだ。
<参照サイト>http://sinfo.sgu.ac.jp/~nakazawa/media/1125.htm
札幌学院大学社会情報学部の一般の学生が書いたものだが、情報を専門として勉強しているだけあって、さすがに鋭い指摘。一読の価値はある。